禅に学ぶ時間論。

昨日から『禅的生活』という新書を読み始めました。まだ読み終えていないので総括的なことは言えませんが、禅の考え方についてわかりやすく書かれた本だと思っています。

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禅的生活』書影

本書の前半で禅における時間の考え方について述べられており、これについて僕も共感するところがあったのでここに書き留めておきたいと思います。 少し長いですが、引用します。

道元禅師はその大著『正法眼藏』の「有時」のなかで、いやしくも仏道を志したなら、時間が過去から現在、現在から未来へすんなり流れているなどとは考えるべきでないとおっしゃっている。どういうことかというと、我々は常に瞬間に生きている。いや、瞬間にしか生きておらず、しかも無数の瞬間どうしには本来一貫性などないのだ。しかしその無数の瞬間を、瞬時に「排列」したり「経歴」したりして我々は時間を作っているというのである。

時間はその時その時の点であり自意識が勝手に点と点を結んで線にしているのだと述べています。僕もかつて自分なりに「時間とは何か」と思索していたことがありました。余談になりますが、僕は時間というものが気になりすぎて大学は物理学科を専攻しました。もっとも、そこでは時間に対してあまり深い洞察は得られませんでしたが。深い洞察が得られなかった理由は当時、日々のレポートに追われていたからというのもあるのですが、自然科学の文脈では時間は一定間隔で刻々と刻まれる客観的時間が想定されており、それはもはや物理をする前提だからだったのです。一定軸を持つ時間の存在を疑っていたら埒が明かない。謂わば物理をするうえで自明なこと、アプリオリなこととして受け入れるしかないのです。

ですが、僕はそこに違和感を覚えました。物理学的描像たる客観時間が時間の本質のように思えなかったのです。それは自らの体験に照らし合わせればすぐにわかります。退屈な時間は長く感じられ、皮肉なことに楽しいことはあっという間に過ぎていく。僕らはそういう世界に生きているのです。また、物理学が描く時間は宇宙開闢から遠い未来の宇宙の熱的死に至るまで、連続して流れ続けます。ところが、実際はどうでしょうか。仮に僕が今日、眠りにつき明日、目が覚めたら僕の時間は深い眠りについている間だけ存在しないことになるのではないでしょうか。つまり、時間は不連続なのです。

僕は世間に流布している素朴な時間観を否定的に見ています。素朴な時間観とは何か。それは、自分が物心がついた過去から現在に至り、そして明日や明後日の延長線上に未来があるという考え方です。つまり、時間は数直線のように真っ直ぐ等間隔に目盛りが振られ、自分はその上を通り過ぎていく。この時間観は後天的に、アポステリオリに身に付いた思考のクセなのではないかと僕は考えています。ではなぜこのような思考のクセが身に付いたのか。それはきっと現代が抱える雰囲気に由来するものだと思います。もう少し、はっきりと書くと世間一般に共有されているパラダイムに基づくコモンセンス、常識、そういったものなのではないでしょうか。おぼろげながら共有される科学的世界観が僕らの常識を支配しているのでしょう。もし、科学的世界観から主観哲学的世界観、禅的世界観にパラダイムシフトが起きるようなことがこの先あるとしたら、僕らが共有する時間観も大きく書き換えられるかもしれません。

禅的生活 (ちくま新書)

禅的生活 (ちくま新書)