『脳はいかにして<神>を見るか』を読み終えて。

書評です。ひさびさに読み応えのある本に出会いました。 本のタイトルは『脳はいかにして<神>を見るか』です。

神経学者である著者らが神経学的見地から宗教体験とはいったい何であるか説明を試みる内容です。 神経学というのは脳を中心とする神経系をひとつのシステムとして捉えて人間の意識の有り様を解明していこうとする学問だそうです。 本書は宗教の中心的概念である<神>がなぜ脳から生じたのか、その謎について一定の説得力のある説明を与えます。

宗教体験は洋の東西を問わず古くから異口同音に「絶対的一者と合一すること」として語られています。例えば、禅であれば「禅定に入る」と表現されたり、キリスト教的文脈では「神との邂逅」と表現されたり、あるいはヒンドゥー教や仏教では「梵我一如」と表現されたりします。

絶対的一者と合一したときの精神状態は体験者の話によると「自己と非自己の境界はもはや失われ世界は渾然一体となる」。そして、「世界は慈愛に満ち、得も言われぬ多幸感に包まれる」そうです。この絶対的一者は宗教によって様々な呼称がつけられています。仏教やヒンドゥー教では「ブラフマン」、ユダヤ教キリスト教では「神」、イスラム教では「アッラー」などなど。

著者らは、古代に生きたネアンデルタール人の頃からこういった宗教体験を持ち得る脳を手に入れていたと説明しています。考古学的事実からネアンデルタール人には同胞の死を悼む文化があったそうです。埋葬の際、遺体とともに埋葬品を添えた痕跡が発掘されているからです。また、洞窟のなかにネアンデルタール人が供物として置いたと思しきピラミッド型に積まれた熊の頭蓋骨の山が発見されています。これは厳しい自然界に対して生け贄を捧げることは自分たちに有利になるという信念のもとに行われていた原初的な宗教行為の痕跡だと考えられます。

死を悼むことができるということは「死」という概念を持ち、それ対する漠然とした不安が、つまり実存的不安があるということです。「なぜヒトは生き、そして死ぬのか」という根源的な問いを発することができるようになったネアンデルタール人が、同時に素朴な宗教行為を行ったのは偶然ではないと筆者らは指摘しています。ここで重要な鍵となるのが「神話」の存在です。実存的不安を抱えるほど高度に発達した脳は、先に述べたような宗教体験ができるポテンシャルを持ちます。あるネアンデルタール人がこのような体験をし、そこで絶対的一者との合一を果たすと、それを合理的に捉えるために素朴な「神」概念を獲得します。すると世界の現象を説明するのにこの神概念が用いられ、そのネアンデルタール人が説明する世界観によって神話が誕生します。

神話は事実を説明するだけでなく、その神話を信じるコミュニティにはある種の団結力を生じさせます。その力が適者生存を原則とするダーウィニズムに適い、特定の神話を信じるコミュニティが生き残ってきたとしています。話をまとめると、ネアンデルタール人は死の概念を獲得し、それから実存的な不安が発生し、誰かが宗教体験を得て、神話が生まれ、宗教行為が行われるようになったという筋書きです。

そして、ネアンデルタール人が抱いていたその実存的な悩みは現代の僕らにも通奏低音として残り続けます。この悩みを持っているということは僕らにも高度に発達し、宗教体験をし得る脳を持っていることの証左です。興味深いのは、宗教が発生する原因となる宗教体験は神経学的に見て同じであると著者が述べていることです。つまり、宗教を興したひとたちは同じ脳の使い方で宗教体験をしているのです。この世に多様な宗教があるのは、宗教を興したひとを取り巻く環境によって発展の仕方が異なったからであり、根っこのところは一緒だと言っているのです。

これは僕の経験上の話なのですが、一流の宗教家・アスリート・哲学者・心理学者・科学者・芸術家が自らの精神論を語るとなぜか表現の仕方は違えど言っている内容は一緒だったりすることが多々あります。これはもしかしたら、各人の精神の旅路の入り口は違っていても「悟り」への終着点は一緒であることを表しているのかもしれません。

今日はここまで。それでは。

VRChatが出てくる小説を読んだ話。

久しく小説を読んでいなかったのでたまにはと思い、『プロジェクトぴあの』というSF小説を読みました。アキバアイドルの天才的な女の子が宇宙へ行くために奮闘するお話です。作中、MMDや技術部を始めとするニコ動文化やAR技術に関する描写が多くあり、それが妙なリアルさを持っていました。奇想天外な方向にお話が進み、わくわくして、改めて小説は面白いなあと思わせてくれる作品でした。

プロジェクトぴあの

プロジェクトぴあの

で、興奮冷めやらぬ状態だったので、積ん読していた次の小説もその勢いで読んでしまいました。その小説のタイトルは『仮想美少女シンギュラリティ』。分量はそれほど多くないので1時間もあれば読めてしまいます。

ブレイン・マシン・インターフェースの研究をしている冴えない研究者である主人公がある日の深夜、自分の意識が無い間にVTuber「ねむ」として活動を始めていることを知ります。「なんでこんなことを始めたのだろう」と自分のことながら不思議に思いつつ2回目のYouTube生配信をしたら、これにハマってしまい、ネットでバズったことで配信の回数を重ねるごとに再生数と登録者数がうなぎのぼり。人気が急上昇して熱心なファンがつくようになります。そんなファンの一人がVRソーシャル『オルタナ』のアバターとして使える「ねむ」の3Dモデルを自分のために作ってくれます。それをきっかけにHMDを購入し、VRソーシャル『オルタナ』にinするのですが、そこではさらに不思議な事件が起きて…とお話が進んでいきます。

もちろん、ここで登場するオルタナがVRChatをモデルにしていることは論を俟たず、明らかです。オルタナでは、ポータルを介して「レイヤー」を移動できます。レイヤーというのはVRChatで言うところのワールドですね。レイヤーにはinviteやfriend+といった入れるひとを制限する機能もあります。

本作品で興味深いのは、主人公がアバターをまとった存在に成ることで現実存在の属性から解き放たれることに悦びを感じる描写があり、日々VRChatをプレイする僕も「たしかになあ」と思ってしまうところでした。

さよなら、醜い肉体よ。今までありがとう。もう君には用はない。私は、ついに肉体の軛(くびき)から解き放たれ、デジタル空間に足を踏み入れたのだ。

作者あとがきでも以下のようなことが書かれており、アバターを介したコミュニケーションの可能性を示唆しています。

全人類が「コスプレ」技術により生身の肉体を離れ、バーチャルキャラクターとして活動することで、個人のアイデンティティ・社会経済の在り方をアップデートし、差別や戦争のない、究極の理想世界を作れるのではないか?

なかなか壮大なことが書かれていますが、多かれ少なかれ、今までどうしようもなかった現実的身体を上書きできるテクノロジーが生まれたことによる社会的好影響はあると僕も思います。

VRChatterには面白い小説だと思います。逆にVRChatやVTuberに馴染みのないひとにはあまりイメージがつかない作品かもしれません。

今日はここまで。それでは。

禅に学ぶ時間論。

昨日から『禅的生活』という新書を読み始めました。まだ読み終えていないので総括的なことは言えませんが、禅の考え方についてわかりやすく書かれた本だと思っています。

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禅的生活』書影

本書の前半で禅における時間の考え方について述べられており、これについて僕も共感するところがあったのでここに書き留めておきたいと思います。 少し長いですが、引用します。

道元禅師はその大著『正法眼藏』の「有時」のなかで、いやしくも仏道を志したなら、時間が過去から現在、現在から未来へすんなり流れているなどとは考えるべきでないとおっしゃっている。どういうことかというと、我々は常に瞬間に生きている。いや、瞬間にしか生きておらず、しかも無数の瞬間どうしには本来一貫性などないのだ。しかしその無数の瞬間を、瞬時に「排列」したり「経歴」したりして我々は時間を作っているというのである。

時間はその時その時の点であり自意識が勝手に点と点を結んで線にしているのだと述べています。僕もかつて自分なりに「時間とは何か」と思索していたことがありました。余談になりますが、僕は時間というものが気になりすぎて大学は物理学科を専攻しました。もっとも、そこでは時間に対してあまり深い洞察は得られませんでしたが。深い洞察が得られなかった理由は当時、日々のレポートに追われていたからというのもあるのですが、自然科学の文脈では時間は一定間隔で刻々と刻まれる客観的時間が想定されており、それはもはや物理をする前提だからだったのです。一定軸を持つ時間の存在を疑っていたら埒が明かない。謂わば物理をするうえで自明なこと、アプリオリなこととして受け入れるしかないのです。

ですが、僕はそこに違和感を覚えました。物理学的描像たる客観時間が時間の本質のように思えなかったのです。それは自らの体験に照らし合わせればすぐにわかります。退屈な時間は長く感じられ、皮肉なことに楽しいことはあっという間に過ぎていく。僕らはそういう世界に生きているのです。また、物理学が描く時間は宇宙開闢から遠い未来の宇宙の熱的死に至るまで、連続して流れ続けます。ところが、実際はどうでしょうか。仮に僕が今日、眠りにつき明日、目が覚めたら僕の時間は深い眠りについている間だけ存在しないことになるのではないでしょうか。つまり、時間は不連続なのです。

僕は世間に流布している素朴な時間観を否定的に見ています。素朴な時間観とは何か。それは、自分が物心がついた過去から現在に至り、そして明日や明後日の延長線上に未来があるという考え方です。つまり、時間は数直線のように真っ直ぐ等間隔に目盛りが振られ、自分はその上を通り過ぎていく。この時間観は後天的に、アポステリオリに身に付いた思考のクセなのではないかと僕は考えています。ではなぜこのような思考のクセが身に付いたのか。それはきっと現代が抱える雰囲気に由来するものだと思います。もう少し、はっきりと書くと世間一般に共有されているパラダイムに基づくコモンセンス、常識、そういったものなのではないでしょうか。おぼろげながら共有される科学的世界観が僕らの常識を支配しているのでしょう。もし、科学的世界観から主観哲学的世界観、禅的世界観にパラダイムシフトが起きるようなことがこの先あるとしたら、僕らが共有する時間観も大きく書き換えられるかもしれません。

禅的生活 (ちくま新書)

禅的生活 (ちくま新書)

冷やし中華始めました。

夏なので。

というのは冗談として、自分も日々の備忘録としてblogを始めてみます。 こういうのはたいてい三日坊主になりがちですが、あまり気張らず気ままに書き連ねていきたいと思います。

頭のなかにあるモヤモヤは一度、言語化することによって整理されるそうです。僕はけっこう日頃から頭のなかがモヤモヤしてしまう気質なので、思考を整理する目的でも何か書き続けていきたいものです。

それでは、今回はここまで。